まだ、私が都内で電車通学していたころですから、もう十五年以上前になるでしょうか。
知人が私の顔を見るなり、あちこちで「タナカくん(私のこと、仮名です)を見かけた」、と急に言ってくるようになりました。
「タナカくん、昨日、スーパーの向かいの立ち飲み屋さんにいたよね。通りがかって手を振ったのに、気づいてくれないんだもん」
「タナカくんさあ、昨日の夜、交番のところのコンビニにいたよね。いつも買ってるの、あの銘柄のたばこだっけ?」
「タナカくん、一昨日、あすこの二階のバーで飲んでたよね。この前、俺も先輩に連れられて行ったんだけど、ああいうところにも一人で行くんだね」
知人同士のまったくふつうの会話であると思われるかもしれませんが、これにはひとつ妙な点がありました。こういう話のどれひとつとして、私には身に覚えがないのです。私は知人たちの言うような日時に、知人たちの言うような場所にはまったく行っていなかつたのです。
それでも、知人たちの見かけた人物というのは私に実によく似ていました。他人の空似と言いますし、同じような雰囲気の人物がたまたま近い生活圏にいただけだと最初は思ったのですが、知人たちの言う人物の外見は相当特殊なもので一致していました。
オールバックに固めた長めの頭髪。
黒いフレームの丸メガネ。
口ひげに、もみあげから顎を一周する顎ひげ。
濃い色のジャケットに襟付きの色シャツ。
下にはデニムを履いて、足元は下駄履き。
奇抜な出で立ちに思われるかもしれませんが、これが当時、文学部の学生だったころの私が毎日のようにしていた装いでした。他人とはちょっと異なる出で立ちであるだけに、同じような恰好をした同じような年頃の人物が、限られた地域でそうそう頻繁に見つかるようにも思われません。
もしかして知人同士に面識があって、みんなで私のことを担いでいるのか、とも思われましたが、知人同士全員が互いに面識があるわけでもないことから、恐らくそんなことはないでしょう。
「ドッペルゲンガー」ということばが、ふと脳裏に浮かびました。それは、もうひとりの自分自身であり、「遭遇してしまうと死ぬ」などという言い伝えもあるようです。その正体は自分自身の生霊であるとか、自分の罪の意識が生み出した幻覚であるとか、いろいろに言われているようで、そういえば当時愛読していた芥川龍之介の短編にも登場していました。
まさか…。
バーで私を見かけたという知人とは大学で比較的よく話す間柄だったので、特に詳しく話を聞いてみました。彼によれば、私らしき人物が、私のいつも吸っているたばこを咥えて紫煙をくゆらせながら、私が愛用しているのとそっくりな万年筆でなにか小難しい書き物をしていた、と言います。
不気味になった私は、その知人からバーの場所を聞き出して、とにかくその店に行ってみることにしました。