1: 名無しさん@おーぷん 2017/06/14(水)03:06:20 ID:Sqn
やっぱ三重の中学の水難事故やろか?
橋北中学校水難事件
ま た1956年7月29日付の伊勢新聞には「…当時おぼれて助かった女生徒の一人はそのとき海の底からたくさんの女の人がひっぱりに来たといっている」「… 終戦の年の同月同日、津市中心部が一夜にして灰燼に帰した空襲時に、この文化村海岸の松原に避難して爆死した多くの難民たちの無縁仏がひいたのだという伝 説も想いおこされる」という記述がある。
さらに、「…身元不明の遺体は砂浜に埋葬されたと聞きました。
それから十年後同じ日、中学生の水難事故がありました。遺体の埋められた場所の近くです。
生存者の話によると防空頭巾をかぶったおばさんが呼んだと云います」という、
7月28日の空襲時、海岸へ逃げそこでもB29による焼夷弾攻撃を受けたという体験談
(戦争の爪跡、三重県戦後50年体験文集、三重県戦争資料館)、
「この日は奇しくも十年前の昭和20年7月28日の焼夷弾攻撃の日であった。当時、中河原地区では焼夷弾で死んだ人々の霊がまだ成仏していないのではないかという、うわさが広まったそうである」
(津市民文化、No.31、2004.3)という記述が見られ、おそらく事件当時から語られていたことがうかがえる。
1963年には、女生徒の体験記が女性週刊誌に掲載される(私は死霊の手から逃れたが…、女性自身、昭和38年7月22日号、pp.55-57)。
これは、頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、
モンペをはいた何十人という女がこちらに向って泳いできて、
「夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした」
「しだいにうすれていく意識の中でも、私は自分の足にまとわりつてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表情な顔を、はっきりと見つづけていました」というものであり、
津市郊外の郵便局長の話として、1945年7月28日の空襲で警察署の地下室に逃げ込んだ人々が「皆、煙にまかれて窒息死した。死者は250名をこえていただろう。
その処理に困った市当局は、海岸へ捨てることに決めたが、漁師たちが反対したので、
一部は油をかけて焼き、残りの大部分は砂浜に穴をほって埋めてしまったのだ」という記述があり、
これが「伝説」の原形であると思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/橋北中学校水難事件
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