1 2022/01/12(水) 06:41:52.69
常紋トンネル
開通後、トンネル内でしばしば急停車事故が起こったりもしたため、慰霊目的として、日本国有鉄道(国鉄)中湧別保線区は、当時の町長の協力を得て、1959年(昭和34年)に常紋トンネルから留辺蘂町側へ約1キロメートル進んだところに歓和地蔵尊(かんわじぞうそん)をつくった。その地蔵尊の裏側にある空き地からは、これまでおよそ50体の遺骨が国鉄職員の家族らによって発掘されており、毎年6月に供養祭を行っている。
監督の指示に従わなかったために、スコップなどで撲ころされたタコ労働者が、見せしめのためにトンネル内に人柱として立てられたという話が言い伝えられていたが、1968年(昭和43年)の十勝沖地震での壁面損傷に伴う改修工事を行ったところ、1970年(昭和45年)9月、常紋駅口から3つ目の待避所の拡張工事中に、レンガ壁から60センチメートルほど奥の玉砂利の中から、頭蓋骨に損傷のある人骨が発見され、人柱の伝説は事実であったことが明らかとなった。ある保線区員は「みんなが『人柱』だといってました」「ほかにも埋まってる可能性があると思います」と語っている。
開通後、トンネル内でしばしば急停車事故が起こったりもしたため、慰霊目的として、日本国有鉄道(国鉄)中湧別保線区は、当時の町長の協力を得て、1959年(昭和34年)に常紋トンネルから留辺蘂町側へ約1キロメートル進んだところに歓和地蔵尊(かんわじぞうそん)をつくった。その地蔵尊の裏側にある空き地からは、これまでおよそ50体の遺骨が国鉄職員の家族らによって発掘されており、毎年6月に供養祭を行っている。
監督の指示に従わなかったために、スコップなどで撲ころされたタコ労働者が、見せしめのためにトンネル内に人柱として立てられたという話が言い伝えられていたが、1968年(昭和43年)の十勝沖地震での壁面損傷に伴う改修工事を行ったところ、1970年(昭和45年)9月、常紋駅口から3つ目の待避所の拡張工事中に、レンガ壁から60センチメートルほど奥の玉砂利の中から、頭蓋骨に損傷のある人骨が発見され、人柱の伝説は事実であったことが明らかとなった。ある保線区員は「みんなが『人柱』だといってました」「ほかにも埋まってる可能性があると思います」と語っている。
続きを読む